2017年03月22日

悲劇の本から踏み出す一歩

とある本。

うまい構成。


うまいことその文章に思考の舵取りをされ、

結末の「悲劇」を受け入れてしまうところでした。


「こうであることが、こんな悲劇をまねいた」

ようにみえる構成。ような自然にみえる流れ。


それはこうなるよね…と尻尾がしゅんとしちゃうような気持ちになっちゃう本。


そうじゃなかったらよかったのかな…




いや!いえいえいえ。

まずちょっとまって。



結末や結果は悲劇のように見えても、

そうでなければ幸せな過程が得られなかったかもしれないものもある。


結果だけを見て悲劇を学びにしようとし始めたら、過去得ていた多くの幸福を結末の悲劇の彩りとして捉えかねない。


そうじゃない。

そうじゃない。

そうじゃないといいたい。


そこまでの流れ全てが悲劇だとか

そこからの全ての基調が悲劇に変わるとか

そんな呪いを受けたくないなあと思う。


それのせいで起きた悲劇をゴールとして切り取った場面だけで。


それがなければ起きなかったはずの幸福がなきものにされるなんて。




その幸せも、欲しいじゃないの。





上手な文章には思考を誘導されがちだけれど

(時には自分がそれをわざと求めて読むこともあるけれど)



望まないものには、立ち止まろう。



「……そういう意味や流れではなくなる描写の仕方や展開は?」と考えて

手に入る新しい素材を矯めつ眇めつ二転三転させていくうち、

自分自信の思考や望む形が見えてきたり

あらためて作られてきたりする。


素材を活かすのであって

素材を消化するのであって

素材に自分が飲み込まれないように

ごふごふと噛み砕いてゆくのです。

力不足で飲み込まれたなら、

力を蓄えなおしてその内部からでも。


悲劇を何かひとつのせいにしない。

たくさんの要素から成り立っていること。

運や偶然も大きい。

ささやかな偶然一つこの手で呼べたら。

小さなドミノ一個抜くことができたら。

悲劇は避けられるかもしれない。


そうして読むと、あれこれ分岐する。


「それはそのままで」いい。

「この幸福も得たままで」いい。

その特質に悲しい因果がこなくていい。


そのままで良い形だってあったはず。

もっと幸福になったかもしれない。

その道だって、探せるんだと、思う。


悲劇に捕まらないために。

悲しみに溺れすぎない。


その練習になりました。


本は、免疫にも、なるね。


posted by 深森らえる at 15:53| Comment(0) | 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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