2011年01月10日

そこに届くまで、付き合う?

物事がそこまで面白く感じられない時は、
実は自分がその物事の面白さをわかるだけ集中していないのかもしれない。

昨日、家に帰ってきたら、家族が「容疑者Xの献身」をテレビで見ていた。
私はそれを映画館で見ていて、クライマックスの良さを知っていたので
チャンネルを変えようとしたりする家族を押しとどめて一緒に見てもらった。

でも。
違った。

あの感動は、最初から少しずつ積み上げられてきたいろいろをすべて内包したうえで
クライマックスの場面をみるからあそこまで心が震えるのであって、
その場面で「ほらここ!」って見せても、映画館でそれだけに集中して、
すべてを見届けた(大げさだけど)上での感動とは違っていて……

そのあまりの違いにがくぜんとした。

クライマックスのあの表情。
それはテレビの中でも同じなのに。同じ作品なのに。

その後数日私をくらくらさせていた、あの感動は、ここにない。

テレビをみていた家族は、ちゃんとストーリーは追っていた。
だけど途中でコマーシャルが挟まったり、お茶を飲んだり、ただいまの声に答えたり。
集中は全然できていない。だから、そこまでこない。
面白い話だった。よくできてた。せつなかった。そんな感想で終わる。

違うよ。そんな簡単なものじゃなかったよ。
嗚咽で喋れなくなるくらいに、胸が締め付けられて。
人がとても愛しくなって。思わず知らず優しくしたくなるような。
そんな言葉じゃいえなくて、胸に抱くものをただ感じていたいような。

だったけど。

そうかあ。

それは、作品が違うわけじゃない。

でも、作品があるべき場所に置かれてなくて、
本来の姿でなく、本来の見方をされてなくて。
何よりも、向き合うべき人が、向き合ってない。

そうかあ。

その物事が本当に面白いかどうかは、本当にしっかりむきあってみなきゃ判断できない。
見た、とか、知ってる、ではないのだ。向き合う、なのだ。


今日あったこと。
映画館でみた映画が、家のテレビでついていた。それだけのこと。

それだけのこと。
それだけのことから、小さな私が実感したこと。

もし私が何かを「そこまでじゃないな」と感じたら。
その「物」が「そこまでじゃない」のではなくて、
その「物との関係性」において、私がそこまでコミットしてないだけかもという発見は。

世界をさらに優しく愛しいものにしてくれる。

小さな私が実感する、大きな大きなはずのことが、それだけのことの中にあった。

ぎゅ。

とりあえずなにより、ありがとうを「容疑者Xの献身」に。

posted by 深森らえる at 01:53| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
その愛しい
を感じられるのは
そのときしかなくて

一分後には
違う自分で

昨日の自分なら
何をどう感じたのか

明日は
どう感じられるのか

場所も時間も
ほんの
わずかな違いで

あれれ??

でも
残念だけど
それも大切な時間に
したいですね


遅ればせながら

あけましておめでとうございます

今年も瞬間瞬間よろしくお願い致します^^
Posted by 茅崎紬 at 2011年01月11日 19:29
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