内面。
それぞれの人の内面は、与えられた一つの器の中で、時間と経験に育てられ、様々に形を変えていく。
這う芋虫から飛ぶ蝶になったり、柔らかな花が固い殻をもつ実に、風に舞う枯れ葉が土になったりと。
それぞれは連続しているのだけれど、それぞれに変化した後の性質や特徴は全く違うもの。
既知の人でも、器の奥をやりとりしないと今目の前にいる人の内面の風景はわからない。
それぞれは連続しているのだけれど、それぞれに変化した後の性質や特徴は全く違うもの。
既知の人でも、器の奥をやりとりしないと今目の前にいる人の内面の風景はわからない。
その時期その時期ではわからないこともたくさんある。
「吹けば飛ぶよな」枯れ葉だったものが、「次を豊かに育む」土になったりするのから、
生きてる間のたまたまその時期だけで、その内面の価値などをはかるのはナンセンスだし
そもそも内面の価値などという、その価値基準などは自分が自分にもてるかどうかくらいのもの。
私はこのブログで、なるだけ丁寧に思っていることの輪郭をなぞろうとしていて。
そうすると、時にはぽんやりしているし、時にはがしがししていたり、多分まとまりがない。
でも、私の風景の中には森や海、いろいろ性質が違うものも混在していて
私が出会ってきた世界と呼応して育てられている大事な世界だから、できればどちらも大事にしたい。
まとめることで、筆のなかにおさまるより、筆で追いかけるその先に広がる世界を見たいとも思う。
同時に、内面の成長ということについても、なんというか、無理をしようとしたくなく。
成長したいと思えば成長するけれど、成長圧力に負けて自然な成長を阻害してただ背伸びするのは避けたいと思う。
結局ひょろひょろと不自然なものになってしまうかもと、今の私は思うから。
まだこの先、考えがまた「成長」して変わらないとも限らないけれど。
けれどどうだろう、考えを変えようとしても変わらずにこうしていく命かもしれない。
内面の時計というのは、止まったり止めてしまったりということもあるので、
例えばさっきの枯れ葉の例えに沿えば、
その前段階の「緑の葉の風景でいる」という選択がなされた世界では、
少なくともその木の部分に関しては葉がずっと緑の世界というものが存在しうる。
そして枯れ葉になることもないかわりに次のサイクルも訪れないこともあるのかもしれない。
永遠の緑。
良し悪しではなくただあること。
その時計が止まること、もしくはまた動く時期すらも、その人における自然な季節の訪れ。
止まっているように見えて、悠久の時の流れの緩やかさでしか動かない植物の種を持つ人もいる。
その人の内面の一部は、あるところまで成長したら、そうした風景を持つことがその運命で役割だったのかもしれない。
私たちはみな別の惑星で、それぞれの生態系を持ち、それぞれに巡る時間の中で、その時の季節の風景を生きていて。
そして時折旅の航路が並行するときに、影響しあったり共有したりする。
既知の友人と、互いの過去にある風景を時折目の前に取り出し、そのホログラムをいつくしむことはある。
それを楽しむために会う関係性だって、ないとは言わない。
けれど既知の友人こそ、アップデートをしながら、出会いたい。
以前のフィルターをかけすぎずに、今の景色を見たいなあと思ったりする。
芋虫のころはキャベツを差し出してたからと、蝶のあなたにキャベツを差し出さないように。
そしてなによりも、今まさに蝶のあなたにむけて、あらためて美しい花束を手渡せるようにと思うから。
蝶のあなたを見つけた私の森の中には、新しい花が咲き始める。
今日も出会えて、嬉しい気持ちで。差し出すための、花が咲く。