2018年07月24日

花が咲く

内面。
それぞれの人の内面は、与えられた一つの器の中で、時間と経験に育てられ、様々に形を変えていく。

這う芋虫から飛ぶ蝶になったり、柔らかな花が固い殻をもつ実に、風に舞う枯れ葉が土になったりと。
それぞれは連続しているのだけれど、それぞれに変化した後の性質や特徴は全く違うもの。
既知の人でも、器の奥をやりとりしないと今目の前にいる人の内面の風景はわからない。

その時期その時期ではわからないこともたくさんある。
「吹けば飛ぶよな」枯れ葉だったものが、「次を豊かに育む」土になったりするのから、

生きてる間のたまたまその時期だけで、その内面の価値などをはかるのはナンセンスだし
そもそも内面の価値などという、その価値基準などは自分が自分にもてるかどうかくらいのもの。

私はこのブログで、なるだけ丁寧に思っていることの輪郭をなぞろうとしていて。
そうすると、時にはぽんやりしているし、時にはがしがししていたり、多分まとまりがない。
でも、私の風景の中には森や海、いろいろ性質が違うものも混在していて
私が出会ってきた世界と呼応して育てられている大事な世界だから、できればどちらも大事にしたい。
まとめることで、筆のなかにおさまるより、筆で追いかけるその先に広がる世界を見たいとも思う。

同時に、内面の成長ということについても、なんというか、無理をしようとしたくなく。
成長したいと思えば成長するけれど、成長圧力に負けて自然な成長を阻害してただ背伸びするのは避けたいと思う。
結局ひょろひょろと不自然なものになってしまうかもと、今の私は思うから。
まだこの先、考えがまた「成長」して変わらないとも限らないけれど。
けれどどうだろう、考えを変えようとしても変わらずにこうしていく命かもしれない。


内面の時計というのは、止まったり止めてしまったりということもあるので、
例えばさっきの枯れ葉の例えに沿えば、
その前段階の「緑の葉の風景でいる」という選択がなされた世界では、
少なくともその木の部分に関しては葉がずっと緑の世界というものが存在しうる。
そして枯れ葉になることもないかわりに次のサイクルも訪れないこともあるのかもしれない。

永遠の緑。

良し悪しではなくただあること。
その時計が止まること、もしくはまた動く時期すらも、その人における自然な季節の訪れ。
止まっているように見えて、悠久の時の流れの緩やかさでしか動かない植物の種を持つ人もいる。
その人の内面の一部は、あるところまで成長したら、そうした風景を持つことがその運命で役割だったのかもしれない。


私たちはみな別の惑星で、それぞれの生態系を持ち、それぞれに巡る時間の中で、その時の季節の風景を生きていて。
そして時折旅の航路が並行するときに、影響しあったり共有したりする。

既知の友人と、互いの過去にある風景を時折目の前に取り出し、そのホログラムをいつくしむことはある。
それを楽しむために会う関係性だって、ないとは言わない。

けれど既知の友人こそ、アップデートをしながら、出会いたい。
以前のフィルターをかけすぎずに、今の景色を見たいなあと思ったりする。

芋虫のころはキャベツを差し出してたからと、蝶のあなたにキャベツを差し出さないように。
そしてなによりも、今まさに蝶のあなたにむけて、あらためて美しい花束を手渡せるようにと思うから。

蝶のあなたを見つけた私の森の中には、新しい花が咲き始める。
今日も出会えて、嬉しい気持ちで。差し出すための、花が咲く



posted by 深森らえる at 17:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月23日

ゆうがた

「ゆうがた」

まいにち すこし そらをみて
まいにち すこし みずをのむ

そらもみずもあおではなくて
いろんなつぶをはなっていて

つきがあかるくなるほどに
とりどりにひそんでまたあした

いちにちのおわりのあさがお

みどりのふくらみのなかに
つぎはなにいろがはぐくまれて


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【らえぽえ】
posted by 深森らえる at 19:34| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

にわにはにわにわとりが

なんていう早口言葉もありましたね。

にわり。のお話をしたくて。今日はカタカタとキーボードを打ち始めました。

「2割動いたところをスタートラインとする」
この思いつきが私の感覚をまたあたらしく
心地よいほうに変えてくれないかしらんと実験したく。

ここに一度書いてみたりしています。

何かしたほうがいいこと、しなくてはいけないことがあるときに。

動きたいなと思っているのに、動けなかったりすること。
なんだかこう気持ちがふぬぬ…となってしまってとりかかれないこと。

あります。

してしまえばなんてことないことが、してしまうにとりかかれない。
なんでなのかしらごろごろ(クッション抱いて横になりつつ)…と考えていて。

ああ、もしかして。
私よりずっといろんなデータをためてきている私の無意識が。
意識できない頭の働きが、先を見通しきれなくていやいやってしているのかなって。

人生は、ずっと続いていくので(基本的には命が尽きるまで)
何かしたこと、は、その次のこと、に、つながっていったりします。

ほんとうーに、ちいさいことをたとえに出してみると。例えばある日、朝起きられない時。
「起きなきゃ―」と思っていても、起きるを完了したら次が数珠つなぎに繋がってくるのがみえちゃうと…?
つまり起きたら今度は、立ち上がって着替えて顔を洗って…と次のしなきゃーがまっていて。
起きなきゃ、は、起きなきゃ、ではおわらないんですよね……
まだそこまでできるパワーないよ…もう食べられないよ…むにゃむにゃぐぅぐぅ。

「起きる、だけで終わらないって知ってる!」というその先の長さが、
ファーストアクションを起こさせてくれない。起きなきゃ、は、本当は「活動を始めよう」なのです。

起きる、は起きるの先の活動を始めるに繋がってて。
少なくとも最初のフェーズの活動だけでも、結構な量(多分身支度・朝ごはんまでで朝の支度としても)
眠くてまだぼんやりしていたい身体でも、ほんとは「起きる」だけならできるんだけど…
心理的には「起きる」じゃなくて、こっそり「朝の支度」がそこに隠れてて、それに構えちゃうのね。

私より先を見通す、私の無意識は、未来の重さをすべて見渡しながら、いろいろしようとする。
そうすると意識は、そこまでの意味はわからなくても、
朝、眠りから覚める時点でそれを引き受けられない重さを感じてなんだかおっくぅになる。

ような、気がする。

だから、起きるのは起きるだけでいい。と決めて。
朝の支度の2割、起きる、そこまではまだスタートラインじゃないとするのです。
起きる、が、完了した時、スタートラインの手前にいるイメージ。
そしてスタートラインを踏むかどうかは、起きて、から、考えればいい。
そういうイメージに切り替えちゃうのです。


今のはたとえ話だけれど。(実は私、寝起きは割といいので)
起きる、って、まさにものごとの起動のイメージなのです。
起動するとその先のやるべきことがみえているのだけど
起動だけをまず、スタート前の別のものとしてとらえる感じなの。

宿題が億劫な時とか。もう思い浮かべるだけで、いろいろ焦るだけで、
でも実際は全然動けなくて時間ばかりすぎる…っていうことありませんか?
私は、あります。

なので、宿題の2割。ここでは「起動」にあたる準備だけする。この時のポイントは
「準備まで」と、ほんとうに決め切って、その先は正直にやりたいようにしかしない。
『「準備まで」って言って、準備したらどうせ強制的にその先もやるんでしょ…?』という意識の問いかけに
「準備しか、しない。そのあとは、やりたければやるけど、やりたくないままなら、やらない」を答え、またそれを守ります。

そうすると、すると思ったところまでしかしない。
やるって言ったことから、延々と先まで連れていかれたりしない。

となると。することへのハードルが少しずつ下がって。

準備、という2割をしたことが、宿題をするにつながることもあれば。
準備、したね、で、終わることもある。けど、つぎは準備の先、から始められる。

やり遂げたいことがあるなら、10割ととらえた、2割をまず「今やること」にして。
その先は2割を終わらせるまでは、もうあまり考えない。あと、2割すぎた時点からまた考える。

2割をしたところがスタートライン、と定義しておくと。
物事の2割をやってみちゃぅても、まだスタートを切ってないから、やめてよい、止まってよいのよね。

スタートするんじゃない、スタートラインまでとりあえずいって体育すわりしよう。
そうして、スタートラインに来て、「走りたくなったらいつでも走れるよ!」ってニコニコしながら
意識と無意識が手を取り合えるようになるのを見守る感じです。

見通せる部分、やる気のある部分、無理をしないようにしたい部分、ちょっとくらい負荷もかけてみたい部分、
身に着けていくことが嬉しい部部分、成し遂げることが楽しい部分、休んでいたい部分、まだ動きたくない部分
いろんな「部分」の集合体の結果である思考や行動が、何かの強制や規範に沿う形のために動かされるのではなく
自分の望みと世界と遊ぶためのバランスを統合するものであるとよいなあと思ったりして

にわにはにわり…とかくだらないことをおもいうかべつつ。
こうしてパソコンをまずひらこう、から始まったりするわけです。

ひらいてしまったら、今日はこんなことを書きたくなりました。
ちなみに書き始める時は、書けないなと思ったら、覚えておきたいことだけ箇条書きで
このブログの保存に残しておこうね…くらいの感じで初めていたりします。しゅるり。

でも書いてみたらわーっとでてきて。
思うがままに「書きたい!」って思って。

あれれ。なんだか普段より長文になりました。

部分は、さほど、あてにならない。部分の一つに意識がとらわれすぎていることもある。
スタートラインから見える景色も、走り始めて見える景色も、いた場所と違ってきたりするから。

始めなくていいけど、始まりの場所までまず。
スタートラインの前まで、行ってみよう。

それが、にわりの、やくわり。

posted by 深森らえる at 19:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月02日

巡りくるサクサク

銀座ウエストの桃のパイ。
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期間限定だからこそ
毎年巡り来る喜びを味わえる幸せの一つ。

中にカスタード。底にスポンジ。
ゆっくりと食べてもパイ生地がサクサク(一口目)、サクサク!(二口目)、サクサク…!

パイからはバターの風味がふわり。
「甘やか」を包み、余韻を残して消えてゆきます……



【お菓子 ケーキ 銀座ウエスト 桃】
posted by 深森らえる at 15:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月01日

氷の朔日

六月の最後の日
夏越の祓、水無月をもぐもぐしたら。

次の日

七月一日は氷の朔日。氷室開きの日。
というわけで氷室饅頭でございます。

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いただきます。今日ももぐもぐ。

こちらすべて、石川県のお店のもの。

昔は冷凍庫がなかったので、氷を作ることはできず。
そのため洞窟や山の中に作られた氷室に
冬の間に集めた雪を保存しておいたのですが
石川…加賀藩は昔、徳川に氷室の氷を献上していたのですって。
氷を運ぶ道中の無事を祈って作られたのがこのお饅頭。

その氷室を開くのが、旧暦の6月1日で。
新暦にもその風習が残り、7月1日で合わせて今もいただくのだそう。

今は台所にいって、冷凍庫をあけるだけで、ひょいっと氷を食べられるけれど。
そんなふうに氷がいつでもひょいっと手に入る、そのありがたさを思う日として。
そしてまた、元気に夏を乗り切りましょ、という感じで。

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もぐもぐいたす所存でございます。



posted by 深森らえる at 10:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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